簡単に言えば

中国の歴史は、そうだったのか!!


立命館大教授・加地伸行 「保守」の奇妙な誤解用法


東日本大震災から1年後、多くのドキュメンタリーがテレビで放映された。その一つに震災後の学校生活を描いたものがあったが、或(あ)るアナウンサーがこう言った。「いのちからがら勉強した」と。

 おかしい。「いのちからがら(やっと)逃げるのに成功して、ここで勉強した」と言うべきだろう。

 このような奇妙な誤解用法が、近ごろもう一つ飛び出してきた。「保守」という語についてである。

 この14日、中国の全国人民代表大会(国会に相当)が閉幕したが、その結果の全体像を各メディアは、なんとこう表現していた。すなわち「改革派対保守派」と。

 「保守派」−このことばを目にしたとき、ふつうならば、そこに〈伝統的なものを継承する集団〉という感じを受ける。

 ところがその内容は驚くべきもので、歴史から見れば、その保守派とは革命派のことだ。

 それは、次のような事情である。

 昭和20年、日本の敗戦後、中国では蒋介石(しょう・かいせき)率いる国民党が中華民国の政権を担当した。

 しかし、毛沢東率いる共産党が内戦で中華民国を台湾に追い、中国大陸において中華人民共和国を建国、毛沢東が最高指導者となって農村を中心に社会主義革命を行った。

 けれども、稚拙で性急な革命の結果、多数の餓死者を出し、貧困な国家となり、毛沢東は失脚した。

 代わって政権を握ったのは劉少奇(りゅう・しょうき)で、都市中心に発展を図った。毛沢東の農村中心とは反対の方向だった。

 そこで、毛沢東文化大革命という看板の下、劉少奇らを修正主義と非難し、社会主義共産主義)革命を叫び、劉少奇政権を倒して権力を奪取した。そして再び農村中心の政策を推進し、都市の知識人らを農村で働かせた。

 その結果、都市の力は落ち、国家として立ち行かなくなった。そこで劉少奇派だったトウ小平が復活して指導者となり、毛沢東文化大革命・農村中心を否定し、都市を重視し、資本主義も取り入れ、現在の政権に至っている。

 という大筋であるから、もし改革派対保守派と称するならば、その保守派とは、共産主義革命推進派のことではないか。

 中国では、いわゆる伝統派などすでに完全に消滅しており、日本人の感覚にある保守派などはどこにも存在していない。改革派対保守派の保守派とは、改革派に押さえつけられている共産主義革命派のことである。

 その集団をメディアが「保守派」と称するのは、奇妙な誤解と言うほかない。

 その〈保守派〉とは、今の改革派政権よりも時間的に古いというだけの旧政権派のことであって、中国文明や中国の歴史・文化・伝統を背景とする真の〈保守派〉とはまったく別のものである。

 「保守」という重要なことばに対するこの誤った理解が、いつから始まったのか知らないが、日本において広がらないという保証はない。『論語』の泰伯篇に曰(いわ)く、「辞気(じき)を出(い)だしては、すなわち鄙倍(ひばい)に遠ざかる」と。「正しいことばづかい(辞気)をするならば、卑(いや)しいことば(鄙倍)は入ってこない」の意。(かじ のぶゆき)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120325/trd12032503230003-n1.htm